「好きなことで、生きていく」のもう一つの解釈(エッセイ)

子供の頃好きだったお話に「ラクダの分配問題」というのがある。

 

父の遺産のラクダ17匹を分配しようとした3兄弟。しかし遺言によると、

長男には全てのラクダの2分の1を与える(17÷2=8.5匹)
次男には全てのラクダの3分の1を与える(17÷3=5.666…匹)
三男には全てのラクダの9分の1を与える(17÷9=1.888…匹)

とあり、しかし生きているラクダを切り分けるわけにもいかず、話し合いが紛糾する。

するとそこを通りがかった旅人が、話を聞いてこういった。

「よろしい、それでは私のこのラクダを1頭差し上げましょう」

3兄弟は訝しがりながらも、旅人の提案を受けた。
すると全ラクダの数は17+1で18匹となり

長男には全てのラクダの2分の1を与える(18÷2=9匹)
次男には全てのラクダの3分の1を与える(18÷3=6匹)
三男には全てのラクダの9分の1を与える(18÷9=2匹)

とキレイに分配できる。

しかも9+6+2=17なので、ラクダは1匹余る。

それで旅人は「では、私のラクダは返してもらいますね」と言って、自分のラクダと一緒に去っていった。

という話で、これを読んだ当時の僕は「この旅人みたいになりたい!」と本気で思うような、マセた子供だった。




「好きなことで、生きていく」という言葉が流行った頃には、自分なりの解釈を考えて、

 

「好きなこと(の割合を増やした環境)で、生きていく」

(つらい苦しみにも耐えられるくらい)好きなことで、生きていく」

 

などとカッコ書きで読み替えをしていたのが、ここに来て、違う解釈ができそうな気がしてきた。

 

自分がやりたいと思ったことに取り組むと、すぐに理想と現実のギャップにぶちあたる。専門的な知識や能力が無いのは当然だとしても、そもそも、そのための勉強や訓練をするための気力と体力が足りない。

 

そこでまず、自分の生活全体を見直す必要が出てくる。どこかで気力や体力が漏れ出ていないか、余計な負荷がかかっていないか、できる範囲で優先すべき設備投資は何か、環境を抜本的に変える必要がないか、などを精査して、好きなことをもっと出来るように軌道修正をしていく。

 

生活を底上げすることで、好きなことの限界が少しだけ広がる。するとまた次の限界にぶつかって、あるいは意図せず状況が変化して、再びどう生活するかを考えていく必要が出てくる。

 

そしてこれが重要なのだけど、その好きなことがいつまでも自分の好きなことで、一番に優先すべきものであり続けるとは限らない。

 

「あれだけ熱中していたことが、何かのきっかけでもう数年以上も手付かずになっている」ということは往往にしてあるし、止むに止まれぬ事情で好きなことを諦めねばならないこともある。

 

しかしそれでも、好きなこと(好きだったこと)のために整えた生活や、そこから得た心身の力や知恵や、人とのつながりは残る場合がある。そのことが、好きなことに取り組むまでは見えなかった世界を、見せてくれることもある。

 

この仕組みを考えた時、「好きだったこと」というのは「ラクダの分配問題」に登場した、「ラクダを貸してくれた旅人」のようなものだとは言えないだろうか?それが現れたことで、自分が抱えている問題が整理され、それを見届けてから去っていく。

 

以上の考察から、「好きなことで、生きていく」の解釈に

 

「好きなことで、生きていく(ことを整える)

 

を新たに付け加えることができそうだ。

 

***

 

どんなことでも、突き詰めていけばもちろんのこと、ほんの少しかじっただけでも、大きな発見や感銘を受けるということがある。

 

逆にそういったものの力抜きで生きていくということは、少なくとも僕には難しい。自分のちっぽけさと偏狭さを、手痛い失敗ではなくて、できればそういうことで思い知りたいとも思う。

 

一人で悩んでいることというのは「ラクダの相続」のように、一見どうしようもないことであることが多い。そこに何か変化を加えることによって、まるで何事もなかったかのように解決してしまうということもある。

 

そのためにはまず自分が、変化に対して開かれていることが必要だ。そしてどうせなら、自分の好きなものに向かって開かれていたい。

 

(元記事:2018年8月30日の日記



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