伸びたり化けたり(エッセイ)

何か良いものを作ろうとしているよりも、自分の抱えている「つまらなさ」を無くそうとして、ものを作り続けている部分がある。

「つまらなさ」というのは鬱屈した不満とかではなくて、自分自身に感じる「面白くなさ」というか、広い意味での下手さというか(狭い意味でも下手だけど)、何かに対するピントの合わなさ、という言い方が近いかもしれない。

全方位的に正答できる人間になりたいのではなくて、ある限られた分野において十分でありたい。その十分さが僕は全く足りない。

…いや、全く足りないとまでいうと、これは卑下のし過ぎで、時折自分でも信じられないような「十分さ」が出現することがあるから、やはり求めているのは、量的なものではなくてピント・調和的なものなのだろう。

目のピントを合わせるにも毛様体筋が必要なように、ピントを合わせて、それを維持するための筋力みたいなものが欲しいと思う反面、間違ったピントで固定されてもマズいよなという気もする。

そもそも、何をもって良しとするのか?出来上がったものを評価することはできるけど、出来上がるまでそれがどの程度の何なのかが分からないという時、評価やその予測とは違う基準が必要になる。

僕の場合、「没頭」や「発想の(過剰ではない)跳躍」という作業中のステータスやイベントについての評価基準はあるけども、それらも「今楽しい、だからまたやりたい」という継続についての判断基準に過ぎず、作品の出来に多少良い影響があるとしても、相関があるとまでは言えない。

しかしながら「出来」については今のところ手がかりが2つあって、一つは「繰り返していると化ける」ということと「人と違うところを伸ばす」ということだ。

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ライブ鑑賞に行ったりしていた頃(この話は過去の日記でも書いたことがあったっけ)、結成したばかりのバンドの演奏がつまらなくて、それは技術面よりも肝心の「やろうとしていること」が自分の好みではないという理由で、もはや「聞きたくない」とまで思うことが多かった。

だけど彼らを何年かぶりに観て、それも同じ曲を演奏しているのを見ると、上達とは関係ない部分で何かがハッキリとしていて、「あーそういうことがやりたかったのね」と思い、それなら聴ける。と偉そうに判断している自分がいた。

その感覚は、当初何を言っているか分からない人が、説明の方向性を変えたり誰かのサポートを受けたりして、聞き手が「あーそういうことが言いたかったのね」と思う時のものに近いかもしれない。

ネット上でも何年も作品作りをしている人が、ある時急にギアが上がったような、素晴らしいものを作ることがあって、でも本人は普段どおりで、突然のリアクションにとまどったりしてて、そういうものとも通じる部分があるのではないかと思う。いい作品を見つけて、その作者の過去作品を調べたら、そのどこかから急にギアが上がっているのを見つけるということもある。

それを、浅ましいと承知の上で、自分でもやれたらいいな。化けられたらいいな。という下心がある。ただしこれは継続そのものモチベーションになるほど強烈なものではなくて、僕にとって継続はやはり「やって楽しい、またやりたい」が第一義である。

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もう一つはTED動画で紹介されていた話でもある。

元コミカルレスラーが語る内容は、「人と違うことをしろ」でも「長所を伸ばせ」でもなく、「人と違うところを伸ばせ」だった。なるほど、確かに何でも「伸び」れば「長」所だといえる。

イラストについて、僕の人と違うところといえば「ホワイトボードで描く」ということくらいだ(画風やデザインには元ネタがあったりして実はあまり個性的ではない)。ホワイトボードで描くということのメリットは、手軽で誰でもできるということと、アナログなのに描き直しがしやすいということぐらいだと思っていた。

それが意外にもkindleと親和性があるという指摘を受けてびっくりした。白黒で線画で修正が早いということが、電子書籍の挿絵に向いているという発想は一切なかった。

人と違うところがある程度まで伸びると、地表から芽を出すように、何か違った世界にリーチするかもしれない。そういう体験をしたことで、それを生活全体に応用できまいか、などと考えて、今は日々の進捗を公開したりしている。「(あまり)人に関わらず一人で色んなことを、少しずつやって一日過ごしたい」というのは、おそらく僕の「人と違うところ」だと思う。

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こういった考えを明け透けに書いてしまうこと自体が、「つまらなさ」やピントの合わなさの一因になっているのかもしれない。仮にそうだと分かっていても、それが腑に落ちるまでは間違い続けることになるだろう。

自分の体験というものの影響力の強さを思うけれど、年をとっていくにつれて今度はその体験が、自らの足かせになるのかもしれないし、既にそうなっているのかもしれない。

だとすると、ここに書いてきたことがいったい何なんだということになるけれど、それは本当にそうで、能書きはその次の行動のための助走
に過ぎない。

その次の行動が、次の能書きである場合も然りである。

(引用元:2018年9月4日の日記



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