生きるための「場」と「輪」(エッセイ)

昨日は電気も復旧したことだし、平常運転でやるぞ〜と意気込んだものの、夕方にはバテてしまった。

それでも立ち上がりとしては順調なほうで、かえって二日酔いや風邪のほうが、全快までに時間がかかっていただろう。

最低限のこともできたので良しとして、気持ちを切り替えて今日の作業にあたる。




最近すこしずつ、Twitterのほうでブロガーさんをフォローするようにし始めた。2018年にブログを始めた方々がリストになっていて、それに参加したのがきっかけだ。

今はほとんど、日報とnote日記の転載だけの弊ブログだけど、作成中のWordPress関連やAccessやラズパイ関連もひと段落したら掲載していきたいと思っている。

そしてどうやら、ブロガーさんの界隈では「オンラインサロン」というものが流行っているらしく、有名な人がそれを主催したり、あるいは有名な人の参加によって色めき立つ、ということがあるらしい。

楽しそうで羨ましいと思う反面、有料か無料かを問わず、どうしてもそういう「輪」に対して抵抗を感じてしまう。

もちろん厳密な意味で、人間が「あらゆる『輪』に属さない」ということはできない。

なので基本は「地域」と「家族」。ネット上であれば、上記のような何らかの「リスト」に加わるか、「同じSNSを利用している人たち」というカテゴリに属するのが、今のところ着地点かなと思っている。

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「輪」が苦手な理由としては…僕がメインストリームと呼ばれるような、人気の多いところに出向くことのメリットよりも、デメリットの方を強く感じてしまう人間だということがあるかもしれない。

だけど、そういう人間も大して特別な存在ではなくて、一般的な割合よりも、自分に合った環境を整えることが優先順位の高い作業になる(お膳立てを利用できない)タイプの人、というだけであるし、そういう人はどこにも一定以上いるような印象を受ける。

もう一つの理由は僕には「現れたくない」「消えていたい」という欲求が強くなる時があって、「輪」や「場」がその性質と相反するということだ。

それが許される「輪」と「場」もあるにはあるけれど、構成員が「消える」ということは少なくとも「輪」や「場」を弱体化させることにつながるため、今度は「消えてまで参加していたいか?」という妙な問いが生まれてきてしまう。

これは同時に、地域やSNSについての「消え」であれば、離脱する物理・手続きコストが比較的大きいので、在留する場合が多いということでもある。

できることならば、そういう「輪」より非効率的でもいいから、「線」としての一対一の関係性を作って、保つことに重きを置きたい。

これは「輪」と「線」のどちらが価値があるとか、そういう意味では決してない。ただ、かつて自分に合った関係性を見つけることができなかった、見つけようともしていなかった頃の苦しみを経て、今の僕が暫定的に出していてる答えに過ぎない。

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「自分に合った関係性を探す」ということでいうと、複数の「輪」にまたがって活動する。ということにもある程度の効果(居心地の良さ)があると感じている。

「依存を解くには、より多くに依存すること」という話に似ているけれど、いくつかの毛並みの違う「輪」に、うっすら参加するということで、どこにも属していないということに近づいていけるというのはある。

ただし、童話のコウモリよろしく、そういったグレーな態度にも当然デメリットが生じるだろう。結局は自分に合っているやり方が、どんなものかを見つけるしかない。

残念なことに、そのための試行錯誤は自分と他人を傷つける。他者とのアンマッチは間違いなく発生するし、それに流されてやがて耐えられなくなるくらいなら、すぐ自分の主張をはっきりさせたほうがお互いに良い。

だからせめて、ダメージ的にも礼儀的にもふさわしい言葉と態度を探す。そうして別の「場」で、屈託なく出会え直せるならそれに越したことはないし、思い出すだけで苦しくなるような思いはもうしたくない。

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失敗も、傷つくことも、そのダメージを制御できるようになるまでにしばらく年数がかかる。

何かに挑戦する人や環境を大きく変えようとしている人に、まずその時間をどうにかくぐり抜けて欲しいと願うとき、僕がそれについて何を言っても生存者バイアスだと思われてしまうだろうし、他人にエールを送れるような、たとえば自分の過去を清算し切れているような素晴らしい人間でもない。

だから、ここは苦し紛れにSpitzの「青春生き残りゲーム」という曲名を紹介するにとどめる。つまり「生きのびてくれ」ということだけは、誰に対しても、どんなにふさわしくなくても、僕にそんな権利がないと言われても、言わずにはいられない。

そもそも「輪」や「場」は人々が生き残るためのものであるはずだ。そしてそこにはどうしてもアンマッチが生じる。となると、そこには居られない人も一定数出てくるはずで、そのことがお互いの生活を変化させることこそあれど、それが「敵」を生み出したり、ましてや相手の生きる価値を認めない理由にはならない。

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…ここまで書いて、いや待て、いったい僕は何と戦っているのだ。と我に返ってしまった。

読み返してみると、どうやら「輪が苦手な人っているよね」ということと「自分に合った関係性を見つけようとすることが大事よね」ということが言いたかったようだ。

ということで、今日はここまで。




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