変化と不変の中に立つ(エッセイ)

昨日のエッセイを書いたあとで、時間の使い方についてのTED動画(日本語字幕あり)を観て、自分の日課を見直そうと思った。

具体的にはDuolingoで勉強する言語を、6ヶ国語から2ヶ国語に減らし、日記の次にAccess開発をやるという順番に変更。何かと入り用になってきたので、もうそろそろ家賃管理システムを完成させて報酬を貰わなくては…という気持ちもある。





 

久々にココナラでお仕事を引き受けたり、じぶんコインで優待を利用してもらえたりして、自分の活動も、ちょっとずつそれらしくなってきたような気がする。

 

この「僕は全然ダメだ」と「僕でも何とかなってるぞ」の中間、「僕も何とかなるかもしれない」というのが楽しい反面、人一倍浮かれて足を踏み外しやすい状態だということも、散々思い知っている。

 

いたずらに手を広げるのでもなく、カフェインの勢いでぶっ飛ばすのでもなく、出来たことと出来なかったことから自分の生活をチューニングし続けていくというのは、実は今まで一度もやったことのないやり方だ。

 

社会に出てから、落っこちたり引っかかったりして、ここまでくるのに10年超かかったということで、人と比べたり失われた年月の重さを思うと、つい落ち込みそうになる。

 

けれど、まあ、社会の状況やインフラが整ってくるまで「待っていた」、あるいは「生き延びた」のだと解釈して、これからの10年をどうするか、そのために手持ちの仕事を今どうするか、という方向へ考えを差し向けたほうが良さそうだ。

 

その分、今の若い人が羨ましくも見えるのだけど、これもきっと世代的なバイアスで、彼らが僕らよりも楽な世界を生きているということでは、決して無いだろう。

 

同じことが、僕よりも上の世代の人たちに対しても言える。「昔はよかった」という人でも、今とは違う苦労を乗り越えてきたはずで、新しい潮流に乗ることのできない全ての人が、淘汰されてしまうような社会にはなって欲しくないし、それだと僕もやがて淘汰されてしまうとも思う。

 

***

 

この10年で、色々な社会の変化が起こったのは確かだけど、面白いのは何かが起こってからは、それ以前の社会を思い出しにくくなるということだ。

 

その一方で、「自分の子供の頃」という射程であれば、今の時代との違いがはっきりと分かる。たとえばインターネットが普及して居なかった頃の世界のほうが、アマゾンが普及していなかった(がネットはあった)頃の世界よりも思い出しやすい。

 

そんな変化とは対照的に、古典などで千年前の和歌などを読むと、「なーんだ人って昔から、大して変わってないじゃん」と思えたりもする。

 

だから目まぐるしく波立つ水面があって、その深いところにも水はあって、それを貫くように伸びている葦が、人間なのかもしれない。

 


(引用元:2018年9月11日の日記



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