つまらない答えに至る旅(エッセイ)




秋雨の風情にあてられて(主に寒さで)今朝は頭が回らない。いざぎよく諦めて、寝直してシャワーを浴びて、栄養剤を飲んで日課を再開している。

 

怠け者は場所や習慣の力が弱まると、すぐ元の姿(ふにゃふにゃしたスライム状の何か)に戻ってしまうし、そこから再起動するときに、時間やお金というコストが大きくかかってしまう。

その再起動を回避するために、ある程度は余裕をもって一日の予定を立てているはずが、どういうわけか毎日、時間一杯をかけないと予定が消化できないし、それでも終わらない日のほうが多い。

 

そこで作業の定時を決めたり、アプリを使って実際の作業時間や脱線時間を計測していた時期もあったけれど、その管理によって生じる余計なコストと焦りのほうが、かえって認知資源を食いつぶしてしまうのだった。

 

***

 

最近だと、ザッカーバーグの妹さんが、「自分のやることを一日に5個決めて、そのうち3個ができたら良しとする」というライフハックを紹介していた。

 

それはいい考えだと思ったものの、訓練された怠け者は「さらにその3個のうち1個ができたら良しとする」というルールをそこに付与してしまうし、すると即座に「1個もできなくても良しとする」という高み?に到達してしまう。

 

これは「人類が2000年もダイエットに失敗し続けている」というテーマ同様に、問いの立て方以前の領域に何か間違っている部分があるのではないかと思われる。

そこで「どうしたら怠け者でも、毎日を無理なく理想的に過ごせるのか?」という問いを立てつつ、まずはその少し前の領域について考えていこう。

 

***

 

まず、ここでは「怠け者」というものを、「自分の生活を維持するだけの行動ができない人」と定義してみよう。

さらに「自分の生活を維持するだけの行動」を、「十分な対価の発生を維持できる水準の行動」とすると、その全員が「怠け」のせいで行動できない人であるとしていいのだろうか?

 

いや、社会的な環境や一時的な状況、さらには先天的な特性によって行動できない人までをも「怠け者」と呼ぶべきではない。もう少し範囲を限定したほうが良さそうだ。

 

すると「怠け」とそうではないものの違いは何だろう?「できるのにできない」と「できない」の違いは何だろうか?

一つに、上記の「社会的環境」や「一時的な状況」「先天的な特性」の影響を受けず、ある種普遍的に「怠けている」人というものを想定して、その振る舞いを「怠け」とすることができまいか。

 

それだと、自分の時間があって、設備も整っていて、睡眠と栄養が十分な僕が、それでも「十分な対価の発生を維持できる水準の行動」(長いのでもう「十分水準行動」とでも呼ぼう)をまったくできずに過ごしてしまうということは「怠け」の部類に属するということが言える。

 

ここまでで、「怠け者」とは「環境や状況、特性に左右されず、普遍的に十分水準行動をとれない人間である」ということが言えそうだけど…それもちょっと怪しい気がしてきた。

厄介なのがこの「環境や状況、特性」というものの影響が、然るべき客観性と測定性をもって判断され得ないということで、これは「できるのにできない」と「できない」の違いの延長でしかないようにも思われる。

 

すると結局は「お前はできるのにやらないだけだ」と「僕ができないのをどうしてわかってくれないんだ」の水掛け論が発生してしまうし、「できるのにできない」人が「やれ」と言われたり「やろう」と思ったところで、それでも「できない」からこそ「できるのにできない」は「できない」なのだ?みたいな入り組んだ話になってきてしまう。

 

だから、いっそのこと定義について論じるのはいったん離れて、「僕は僕を『(何らかの理由があるにしても)普遍的に十分水準行動をとれない人間である』とみなしたい」という欲求そのものの存在を認めて、ではなぜそう思いたいのか?について問うていくほうが、何か発見があるかもしれない。

 

***

 

どうして僕が自分を怠け者であると思いたいのか?と誰かに面と向かって問われれば、「そんなの、現に怠け者だからに決まってるからでしょ」と言い返したくなってしまう。

 

けれど、果たして厳密な定義もできないで、あるいはその判断基準も明示できずに、「現に〜である」と言い放ったところで空虚に響きはしないだろうか。

 

なぜ自分が怠け者であるということが「自明の理」であるということを無邪気に信じ込み、単なる思い込みである可能性を疑おうとすらしないのか。

 

そこでその主張が事実かどうか以前に、とりあえず僕自身に「自分は怠け者だ」と思いたいという欲求がある。と仮定することにしよう。その方が何だか、かえって風通しが良いような気もする。

 

***

 

もしそうだとして、なぜそのようなことを望むのか?

 

自分を怠け者だと思い込んだからといって、勤労や社交の義務が免責されるわけでもないし、仮にそれで免責されてしまったら、今度はその「免責された」という事実のもつ避けがたい重苦しさで、自尊心や肯定感が破壊されてしまうだろう。

 

思い当たる節があるとしたら、昨日の日記に書いたような「理由づけ」くらいだろうか。漠然とした不安や不調の原因を後付けするために、自ら率先して状況を悪化させてしまうということがあるように、ここでは「自分が怠け者である」ということを、何らかの「理由づけ」に利用している可能性はないだろうか?

 

これは考えていく余地がありそうだ。たとえば常に順風満帆ではない僕の人生の失敗や後悔というものの原因を、総じて「自分が怠け者だから」ということに集約させて「理由づけ」し、安心(思考停止)したいという欲求がないだろうか?

 

あるいは他の人ができることが自分にできなかったり、他の人のようにできなかったり、他の人と一緒にはまったくできないということの理由として、自尊心を損ねずに「理由づけ」するためには「怠け者である」ということが、おあつらえ向きだったのではないか?

 

***

 

すると一方で、僕は自分を「怠け者」と見なすことによって、奇妙だけどある程度の(生きながらえる程度の)利益を被っていたという言い方ができるかもしれない。

だから、その間違った考え方を訂正・矯正しようとするのではなくて、どうせならもっとより良い表現へと、アップグレードさせることを考えてみるのはどうだろうか?

 

定義を考える段にあったように、「怠け者」という言葉はその範囲の曖昧さや、主観によってしか判定できないという性質から、不用意に他人を傷つけてしまう言葉でもある。この文章を読んだ心優しい人が、「私も怠け者なのかな…」と悲しい気持ちになってしまうなんてことは、僕の望んでいることではない。

 

そして僕も、何かに刹那的に熱狂して活動するということがある。そのたびに、自分が「怠け者」であるということを完全に忘れてしまうか、思い出したあとで「ま、まあ、こういうことも怠け者の性質なんですかね」みたいなエクスキューズを入れなくてはいけないとしたら、おそらくそこで自分の性質を表現する言葉として「怠け者」は、その役割を果たしきれていない。

 

短絡的に理由づけして集約するのではなく、人生における理不尽さや己の愚かさを、それそのものの群れとして受け入れることは決して気分の良いものではないけれど、気分の良さだけが万事において優先されるべきとは経験上思えない。

 

これはレッテルの力を借りて代償を支払いつつ一網打尽の解決策に頼る。という時期が終わって、これからは面倒くさいこと・つまらないことの一つ一つを問題として捉えていくということに、耐えなければいけない(耐えられるだけの力がついた)ということかもしれない。

 

***

 

以上の思索から、当初の問い「どうしたら怠け者でも、毎日を無理なく理想的に過ごせるのか?」に対しては

「小さな改善と対策の組み合わせを、できる範囲で試行錯誤し続ける」、つまり「やるべきことを、一つ一つ、やれるだけやる」という、なーんの面白みも鮮やかさもない答えしか出せなくなってしまった。これは怠け者じゃなくてもつらい。

 

ただ、それはそれで、もしかしたらすごく豊かなことなのかもしれない。

まあとにかく、不安や体調不良、自分の弱いところやこだわりや、どうしようもない世の中の大きな流れとも付き合いながら、やるべきことを、一つ一つ、やれるだけやっていこう。

(引用元:2018年9月22日の日記



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA