仕方なさを減らせる方法を(エッセイ)




(引用元:2018年8月11日の日記

土砂降りの雨が夜のうちにおさまって、今朝は傘をさしつつ散歩していたところ、「破天荒な天才」と「AIの発達」についてのアイデアを得たので日記に記録しておこうと思う。

 

「ティール組織」を読み始めた影響もあるのか、人類史のような大きめのスケールでものを考えることが増えてきた。今(西暦2018年)がビッグデータや人工知能の普及への過渡期であるのだとしたら、この変遷によって、何の「仕方ない」が解消されうるだろう?

 

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厳密にどの時代からということは言えないにしても、人間たちは少しずつ、色んな「仕方ない」をクリアしてきたと思う。

 

夜は暗いから仕方ない、洞窟から湖は遠いから仕方ない、肉はすぐ傷むから仕方ない、病気になるのも仕方ない…

 

そういう具体的なものだけでなく、「神様が決めたことだから」とか、「そうしないと社会が成り立たないから」とかの仕方なさも、少しずつ解消されることで世の中は良くなってきた。

 

そういった変化が強まる背景には、技術革新ともう一つ、ずば抜けた能力やカリスマ性を持った個人の出現ということがあったようにも思われる。

 

たとえば歴史の教科書には「天才」や「偉人」の出現が、その後の世界を大きく変容させていったとある。

 

そして一斉を風靡しただけあって、突飛なエピソードや破天荒な人物描写に事欠かない。ウワサに尾ひれがついた部分もあるだろうけど、当時の社会にとって異質な存在であったことが、その功績を生み出す要因にもなっているということだろう。

 

現代社会においても、「人としてはどうかと思うけど、あれだけのことができる or あの分野で右に出る者はいない」という「天才」タイプの人が、歴史上の人物にかぎらず大勢いる。

 

僕はこれからの技術によって解消される「仕方ない」は(あるいは解消して欲しいと願っているのは)このポイントである。

「天才だから仕方ない」だ。

固い言い回しにすれば「能力の属人化によって免責される非人道性」である。

 

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素晴らしい能力や強い影響力を持った個人がいて、その人の力が損なわれたり、その人と敵対することを恐れるがために、その傍若無人ぶりが「仕方ない」ことにされてしまう社会は、決して今に始まった話ではない。

 

それに、社会の常識にとらわれていない人間のほうが、斬新な発想や大胆な行動が取れるのではないか。という認識も根強い。

 

それも一理あるかもしれない。しかし、そうではないやり方や、そうではない人のあり方でも、同等の結果を生み出すことができるのであれば、僕はそちらを選びたい。

 

驚異的な仕事量ということであれば、機械は人類を凌駕している。また、創造的な活動は偏った個人からだけでなく、健全な生活や健全なチーム(関係性)によっても生まれるということが謳われている。

 

そういった技術や方法論の進歩によって、ある特定の個人が才能や能力を「抱え込む」必要が相対的に減っていくのであれば、その人の特権性を代償として認める必要もまた、相対的に減っていく。

 

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ただしこの「『天才だから仕方ない』の解消」は、技術の先鋭化のみによって実現されるものではなく、または、先鋭化のみによって実現された場合には、人権に関わる別の問題を生み出してしまうような気が、なんとなくしている。

 

そこで、「ある特定の個人による才能と能力の『抱え込み』」を相対化・無効化するもう一つの方向性についても触れたい。それは簡単に言ってしまえば、「人間全員が天才になること」である。

 

急に何を言っているんだと思われるかもしれない。けれど、ITインフラの発達によって学習の機会が与えられた人々が、20世紀とは比べ物にならないほどの「天才になる可能性」を獲得しているということは言えないだろうか。

 

これは僕が「天才とはまず自分自身と周辺環境、そこから社会と世界に対するマッチングの成功を指す」という持論を持っていることに由来している考え方なので、一般的な言葉の定義とのズレで、どこまで他の人に伝わるのかがちょっと不安なところではある。

 

ともかく、この言い回しを先述の「破天荒な天才」に当てはめると、「自分自身と周辺環境に著しい問題があるものの、社会と世界に対する強いマッチングによって免責されている状態を指す」ということになる。

 

もし人々がより良い状態で「天才になる(マッチングする)」ことができるのであれば、その方がいい。それを実現させるための技術や方法論というのは、おそらく人工知能や組織運営論とはちょっと違う分野にあたるのではないかと思う。

 

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微妙な言い回しが多いので、誤解を招いているかもしれない。

まず僕は、人間の行動が破天荒だったり、突拍子もないこと自体が問題なのではないし、もっと極端に言ってしまえば、自分勝手で他人の気持ちを考えないという態度でさえ、それ自体は…問題ではないと考えている。

 

問題はそれらの行動や態度によって生じるアンマッチと、アンマッチを起こす状態と、それを「仕方ない」ものだとする社会通念にある。

 

いや、しかし…そのアンマッチも、ある時点までは「仕方なかった」。つまり、その仕方なさに正当性があった(としなければならなかった)ということも分かる。たとえば誰かの「生きるためには仕方がなかった」を否定できるような傲慢さを持つことは、恐ろしくてできない。

 

だからここで言えるのは、今この時代に「仕方ない」とされているものの中に、「仕方なくない」ものや「仕方なさが減ってきた」ものがあるのではないか?そしてそれらを解消する準備が、整いつつあるのではないか?というところまでだ。

 

そして残酷なことに、どこまで技術が発展し思想が豊かになっても、究極的に人間というものは「仕方ない」。生老病苦はもちろんのこと、いつでも人格者でなんかいられっこない。僕だってこれからも散々に失敗して、後悔の山をうず高く積んでいくだろう。

 

だとしても、だからこそ、よりマシな、より「仕方なくない」世界に生きていきたい。

そのために、よりマシな、より仕方なくない「仕方」を、アンマッチを抱えた個人として選んでいきたいと思う。




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