本日の眼高手低(エッセイ)




(引用元:2018年8月10日の日記

去年の今頃は「もう社会にいられない。僕は誰とも関われない。」などと悲しい日記を書いていたのが、ここにきて少しずつ回復できている気がする。

 

社会性は相変わらず、ちぐはぐなままで、しかし関わることができる「社会」や「誰か」はどこかにいるはずだ。「どこかにいるはずだ」どころか、そういう他人に本当に出会えたという事実があって、やっとその存在を信じられるようになってきたあたりが、ちぐはぐだとも言えよう。

しかし、前の就職の時も似たような感覚だったことを思い出して、背筋が冷えてくる。

同じ失敗を繰り返さないためには、できないことはできないと明言すること。できる限り他者とのやりとりは記録を残すこと。自分を過信しないで、全てにおいて余裕を持つこと。これらを忘れないように、何度も確認していくことが必要になるに違いない。

 

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何度も大失敗をして逃げてきて、それでも恥を忍んで生きさらばえている人間としては、思慮に欠けたり感情的になってしまい、その結果孤立しているような人たちを見かけると、どこか自分の「同胞」のように思うところがある。

 

最近になって自分に直接関わってくれる人たちは、そういうこととは無縁の人たちばかりで、自分が関わって本当にいいのだろうか。いつか自分がその人を落胆させてしまう事が起きるのではないか。という不安がある。

 

とはいえ、その不安はグッと気合いを入れると「責任感」に上位互換できる感情なので、悪いものではない。気になっているのは、孤立や疎外に陥っている人たち(自らの行いが招いた結果だとしても)を、「自己責任だ」と詰ることが、果たして社会と自分たちにとって最善策なのだろうか。ということだ。

 

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語学の勉強のつもりでTED talkをたびたび観ていると、むしろその内容自体に目を開かされることが多い。

 

「ホームレスの人にはまず住まいを無償提供することが、結果として公共費の削減に繋がる」

「誰かが、不健康だったり危険な行動習慣をすぐにやめることができない場合は、せめてその行動にともなう害や危険をできるかぎり少なくすることから始める(ハームリダクション)」

「人々の生活そのものの質を向上させる施策を行った方が、直接の対応に費用をあてるよりも薬物依存者を減らせる」

「人類史上で貧困の問題を大規模に緩和してきたのは政策や慈善活動ではなく、起業である」

「誰かがただ耳を傾けるということが、一番の救いになりえる」

 

別の国の、知らない人たちが、真剣に行動して、そのことについて語っている様子をぼんやり画面越しに眺めながら、あまり疑問を持たず自分が行っていることの中には、もしかしたら間違っているものもあるのではないかな、と思うことが増えてきた。

 

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もちろん、他人に対して、のめり込みすぎることの危険は大いにある(僕の場合は特に!)。危きに近寄らずということを君子でないのに身につけているのは、それで痛い目に何度も合ってきたからだ。そのほとんどが、自分のキャパシティと実力を大きく見積もりすぎたために迎えた結末だった。

 

だいたいそういうサポートは公共事業の役割だとも思う。しかし僕が知っている限りでは、行政で現場を担う人たちはもう十分すぎるほど稼働していて、対照的に、現場で生じている問題を根本的に解消するための組織・機関というものには、いくつかの理由で期待できない。

 

…などと、問題意識だけが上ずっていて、結局僕も口だけの人間なのだけど、たまたま恵まれている者として、たまたま苦境に陥っている人たちへ、自分が抱えた「福」をどう分配(それも自分の身を守りつつ)できるのかが、なんだかずっと試されているような気がしている。




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