自分の「やりやすさ・やりにくさ」から(エッセイ)





(引用元:2018年8月7日の日記

別の国の言葉でも、綴りが似ているものがあると意味を推測できるように、なんとなく分かったつもりになっているVBAが「クラスとメソッド」というルールに則っているということを、Pythonなど別の言語で理解できたりするのが楽しい。

 

別の分野の知識が組み合わさって活かされるということは、おそらくシナジーの一種であるし、これが他の人との連携によって生じる場合は、コラボレーションと呼ばれるものになる。

 

たとえば絵を描く人が、文章を書く人と何かを作り上げようとするときに、彼らが専門的な能力と同時に「他人と何かを作り上げることができる」という能力を備えているということが前提になる。

 

一人だけで多分野を組み合わせるのであれば、そのコラボ力のようなものを持っている必要はない。もちろん、それで出来上がった作品を、最終的に社会へ向けて公開するのであれば、結局他人との関わりを回避することはできないのだけど、単に完成品を提出するということと、共に作る(Co-labo)こととの違いは大きいと思う。

 

***

 

「どうやって(一人で)価値を生み出すか」という問いを、「どうやって(他人の)価値を生み出す活動に参加するか」という問いに変更することができれば、隣接可能領域の増大によって、自分の状況を段階的に改善していくことができる。

 

ということは分かっていたのだけれど、今までことごとく誰かとの協力に失敗してきた自分には、もはや選べない選択肢だと思っていた。

 

しかし、それは技術不足やスケジュール管理の甘さ、過負荷などによる失敗だったのであって、他人との連携そのものが不可能ということではなさそうだ。

 

そう思える機会が、有り難いことに最近増えてきた。いくつかの条件を満たせば人に喜ばれることができるということは、どこか「障害はその人の内側にあるのではなく社会との関係性にある」という考え方にも通じている気がする。

 

とはいえ、自分自身に対する困難さも大きいので、必ずしも内側に問題がないわけではないけれど、インフラやツールの整備によって、だいぶ「やりやすく」なったということは確かだ。

 

その「やりやすさ」は目に見えるものだけではなく、社会のあり方や一般的な考え方の変化も含まれる。それは先人が人生を賭けて獲得したものばかりで、それが達成されたがゆえに、それまでの苦難の道程は見えにくいものになっている。

 

僕などはそういったものに乗っかっているだけなのだけど、そこからさらなる「やりやすさ」の拡大、あるいはあるべきでないことの、さらなる「やりにくさ」の拡大へ、他人に求められる活動を通じて寄与することはできないだろうか。

 

そうした大掛かりなことを望んだ時、まず自分自身が、最小単位の「社会」として立ちはだかってくる。したがって、まず僕自身の「やりやすさ」とあるべきでないことの「やりにくさ」を拡大させていくことで、結果として他者に開かれていくということを考えていきたい。





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