「楽しい」から「面白い」へ(エッセイ)





昨日はちょっと思うところがあって、いつもより日課の負荷を上げてみた。

 

カフェインも砂糖も摂って、しんどいところまで作業して、予定の時間まで起きていられずダウン。今朝も腰痛がある。

 

去年までは、コーヒーをガンガン飲んで感覚を麻痺させて、無理を無理と思わずに生活していたけれど、それだとあるタイミングで「目も冴えて体はどこも悪くないのに、何もできないまま一日が終わる」という恐ろしい状態に陥ってしまっていた。

 

そこで今年は極力無理をしないで、毎日の日課を進めていたけれど、ここに来てそれも、だんだんつらくなって来た。できるにはできるし、作業興奮もあるのだけど、「できることしかできない」ということの虚しさみたいなものが高まっていた。

 

するとそれを紛らわすために脱線が起きて、そのことで進捗が下がるのを食い止めようと、現状維持に勤しむ。という構造が見えてきてしまい、このままではマズいということで「気分のムラに左右されずに、判断として負荷を上げる」を試してみた。

 

結果わかったのは、現状のレベルにおいても改善点があるということだ。ちょっと無理しただけで体にガタがくるということは、メンテナンスが十分でないということだし、インプットが十分でないということが「できること」が拡張しない原因の一つだと勘付いているのに、どうも気乗りしないということは、これは単にインプットの訓練(インプットのメンテナンスとも言える)の不足があるということだ。

 

もちろん、ドーピングばかりしていたら去年に逆戻りなので、毎日は無理できないし、今日はその悪影響をどこまで抑えて、最低限の日課の進捗を維持するための具体的なテクニックを探す、という別の課題に取り組まなくてはいけない。

 

***

 

Voicyで「プロ奢ラレヤー」という人の音声投稿を聴いて、この人は本人も公言しているように「面白い」中毒なのだなと思った。

 

つまり自分とは違う種類の人間なのだな。という印象だった。僕は自分の持つ、あるいは感じる「面白い」に自信がなくて、その代わりに自分の「楽しい」を手がかりにして生きようとしている。

 

「楽しい」は穏やかで自己充足的で、同じことを繰り返すことが苦ではない。「面白い」は鮮烈で知らない世界に向かって、新しいことをし続けることによって生じる。

 

だから「できること」を拡張しようとして、その外側に出るということは「楽しくない」かもしれないが「面白い」。したがって「楽しい」を第一の動機とする人間にはこの「コンフォートゾーンからの脱却」が苦痛になりうる。

 

もちろん一方の性質しか持たない人間というのはいない。僕も潜在的なものなのか、それともプロ奢ラレヤーに感化されたのか、自分の「面白い」にもう一度手を伸ばしてみたいな、と思い始めた。

 

***

 

人としての面白さ、発送の奇抜さ、人の注目を集めるような魅力、そういうものを持たない人間として、じゃあ何かできることはあるの?ということがもっともっと必要だとは分かっていて、でもそのためだけに一生を捧げようとするほどのエネルギーもない。

 

同じ「せずにはいられない」でも、狂ってると言えるほどの巨大なエネルギーの塊のような人もいれば、淡々と小さい何かを作り続けることで精一杯の人もいる。

 

「できること」は人それぞれで、それでいて絶えず変化する。今の僕はそれをちょっとだけ広げたいなと思っているだけに過ぎず、また元のレベルに戻ってしまうということも十分考えられるが、それはそれでも構わない。

 

そういうことを、卑下するでも誇張するでもなく、記述できるようになってきた。

(引用元:2018年9月26日の日記




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA